科学と発酵と音楽

科学も発酵も音楽も考えることが楽しい。雑記が中心。

【必修化】搾取されたい人と馬鹿にされたくない人へプログラミング言語のすすめ

プログラミングみんなどうよ


プログラミングについて、みんなどうしようって言っているけど、あまねくやった方がいいよという話。2020年からプログラミング学習の時間が必修になり、先生たちも大変ね。IT土方を増やすことに意味があるのか、みたいな的外れの批判もあるけれども、本質的なことはプログラミング的な思考方法を身に着けようという意図があるところで、よく理解できる。結局プログラミングはロジックの世界なので、グローバル化の今日日、日本語の弱点でもある論理構成を理解するためにはもってこいのような気がする。


日本語が論理に向いてない

日本人の論理に対する弱さは異常で、論理的であるだけで多くの人を屈服させることができる。でも中には何となく違うと思う、ということを大プッシュして反論してくる人もいるけど、そういう人たちは大概、優しい雰囲気で同じことを言えば納得してくれる。ちょろい。論理というのは記号的な思考を言葉にしたものであって、逆ではない。何を言いたいのかというと、ロジカルシンキング和製英語だということ。言葉が論理なのであって、思考は思考。抽象思考を言葉にするとき、とにかく英語は便利。一方で、見たものを見たままみたいな表現は英語は苦手だと思う。これは多分自分がネイティブじゃないからなんだけど、具象を言葉にするには英語は使えなくて、日本語の語彙は便利。よく考えてみると、日本語がイメージ・画像に強いのは当たり前だ。だって象形文字だもの。


言葉が崩壊している

日本人の言葉が崩壊していると感じる。いや昔からぶっ壊れていたのかもしれないけど、SNSが蔓延しだしてから顕在化したと思う。日本人が言葉を大事にしている人種だとか、おぞ毛が立つね。要するに、言葉できちんとコミュニケーションが取れているケースが少なすぎるということ。何故、一つの文章が解釈の問題になってしまうのか。140文字の文章がなぜ、一意に表現されていないのか、ということ。発信者も受容者も結局のところ言葉を大切にしていないので、言葉を雰囲気で使い、受け入れるのだ。文章を書くのに単語の意味について、とか不安になることが無いのだろう。明治時代の知識人たちは一生懸命英語を訳し、熟語化したといわれている。Spirit→精神、とか、全部無駄な努力にするSNS界隈。結局雰囲気で分かりあっているから、狭い自分たちのシマを離れるともう全くのコミュニケーションブレークダンサー(雰囲気)にならざるを得ない。同じ日本人同士でも、ね。


何故プログラミングか

プログラミングの肝は、機械にこちらの都合を分からせるための言語であるということ。つまり0/1しかわからない奴らとどのようにコミュニケーションをとるかということになる。そこで、極端に抽象化された世界で、記号的かつ道筋のある指示を行えるような体系が構築されてきた。だから、プログラミング言語の構造は極めて論理的であるといえる。これを扱えるようにすること、少なくとも概念を知っておくことが、抽象思考を苦手とする日本人にとって非常に大事であるということは理解できることだと思う。


プログラミング言語を習得すべき人

小学生、中学生がプログラミング言語にふれる重要さは理解しやすい。ただ大人はどうか。副業したい人などが、これからプログラミングできると稼げる、みたいな言葉にホイホイされているけれども、どうなんだろうな。変なたとえ話をすると、つるはし、知っていますよね、工事でつかうつるはし。つるはしを使える人が仕事にありつける時代があったと思うんです。建築やインフラ構築で工事がバンバンあったとき、つるはしを使える人は儲けましたか。そういう人の需要はあったと思うけど、結局儲けたのはそういう人たちを搾取する人たちだった、と。AIによってプログラマーは職を失うことは必然なわけで、今儲けるためにプログラミングを始める人たちはただの搾取対象なんですよ。でも、AIなりコンピューターなりの中で何が起こっているか、それを使うために最低限の前提としてプログラムを理解することは重要だから、大人の場合は来るAI時代に備えるために、何言語だろうとよいので自学した方がいいんじゃないかと思う。儲けるとか抜きにして、ぶっ壊れたSNS語で子供に笑われる日が来ないように。

研究者とポスト真実の時代

研究者たちは時空を超えて語り合う

 我々科学を扱う研究者は、事実を基にした物語を真実に近づけるため1000年以上にわたり営みを紡いできた。研究者同士は「論理=ロゴス」によって地域と時代を超えた交流を行っている。異国、異時代の研究者の論文を理解することが出来るのは、ひとえに論理を共有するからである。研究者は交流と継承を絶やさず、証拠に基づいた物語を創作している。この物語は新しい事実により補強されたり否定されたりを繰り返している。研究者はこの物語が最後は真実へ到達すると信じている。

研究に失敗はなく、人の営みが失敗という概念を生む

 研究者は失敗が許されている。否、厳密に言えば実験には未熟な失敗がつきものだが、研究に失敗はなく、ただ結果のみが厳然と立ちはだかっている。望まなかった結果であっても失敗とはみなさない。これを受け入れながら、前向きに物語を紡ぎ続けるのだ。しかしながら社会はこのような仕組みを持たない。望むべき結果や思想があり、それに最後まで寄り添うのが社会の営みであるから、望まない結果は失敗と言う。人は、幸せや生死に関わる意思決定は失敗と無縁であるべきと考えている。しかし人はまだ真実に達していないから、科学もあっさり君を裏切るだろう。だから、社会や生活における意思決定では、自分の物語を紡ぐのがあなたにできるただ一つのことである。

雰囲気で決められていく世の中

 現代において、いわゆる科学的な視点が社会に求められている。何事にも証拠を求めることが推奨される世の中である。実際にこれまでの考え方とは異なる視点を科学は提示するだろう。経営、教育、政策決定など様々な分野でのエビデンス・ベイスドは必要だと考えている人が多い。2016年の英国で流行語として「ポスト真実の時代」という言葉が話題となった。EU離脱選挙、および米大統領選挙においてフェイクニュースによる世論操作が堂々と行われ、人々の意思決定に影響を与えた。SNSによる共感と情動の伝播が事実に勝ったことは衝撃的だった。だからこそエビデンス・ベイスドなのだ、という主張が社会学者によってなされている。

エビデンスを真実のように扱う悪人たち

 私は、今世の中で使われるエビデンス・ベイスドは、ポスト真実の時代では悪用されると考えている。少なくとも、社会学者が提起する対抗するような考え方ではないということである。研究者は証拠を基にして物語を創作する。この物語はまだ真実ではない。あまた存在する研究者は、どのような物語に対しても証拠を持っている。あたらしい証拠により物語は書き換えられ、淘汰されていく。ある望ましい物語の証拠に基づいて意思決定を行っても、望ましい結果は大抵得られない。なぜなら、証拠の選び方が大抵の場合恣意的だからだ。エビデンス・ベイスドを語る人間はこの事実に気づいていないか、知っている人間は悪用していると考えてよい。科学的な証拠は今、共感を得るためのツールとして悪用されている。

今こそ語り合うための「ロゴス」

 ポスト真実の時代を科学は恐れている。2014年に日本で大きく問題になった捏造事件があった。主役の研究者は望ましい未来に大きく依存して、偽の証拠で作った物語で世の中の共感や賞賛を求めた。悪意の花は周りをすべて枯らし、しばらくその研究領域では日本の研究者が出した論文は成果として認められなかった。善意と自浄作用を信じる研究者には、これを止められない。ポスト真実の時代においては真実に頼ることすら、得策ではなくなってしまう。しかし我々はあきらめない。1000年以上にわたり物語を紡いできた研究者は、科学に限らずロゴスが地域と時代を超えて人々を繋ぐだろうと信じている。「はじめにロゴスありき」。そう、真実の前にロゴスからやりなおそう。これがポスト真実の時代における研究者の提言である。

三島由紀夫と宇宙

あなたの隣人はもしかしたら宇宙人かもしれません。

突拍子のないことだと思われたでしょうか。

実はそれほど非現実的なことではないのかも。

天文学や宇宙探索に関わる多くの研究者たちが、

地球外知的生命の存在について肯定的です。

もし、数多の星に地球人よりも優れた生命が存在したら。

もし、そのうち一部の宇宙人が地球人として偽装していたら。

そんな妄想に取りつかれた文豪がいます。

それが三島由紀夫です。

 

三島由紀夫が宇宙人について書いた本を紹介します。

三島由紀夫についてみなさんどんなイメージを持ちますか。

金閣寺」や「潮騒」など、教科書に出てきますが、

理屈っぽくて多くの人が途中で投げ出す本選手権優勝候補、

ではないでしょうか。

そんな三島由紀夫の唯一のエンタメSF小説が、「美しい星」という作品になります。

4人家族の話がメインになりますが、4人全員が違う星から来た宇宙人、

ということになっています。この時点で私は文章を二度見しました。

極めて世俗的な生活の中で、この宇宙人家族は崇高な意識を保ち続けます。

そう、それはもう滑稽なほどに。

見どころは、4人家族のお父さんと、違う銀河から来たという、

黒いスーツの男(メン・イン・ブラック)との壮絶な議論場面です。

黒いスーツの男は、地球人はバカだから我々が引き上げるのだ、と言い、

お父さんは、いや地球人は誇りをもって自ら向上するのだ、という感じで…

はいごめんなさい、長いので私は斜め読みしました。

 

この小説、読んでも読んでも彼らが確実に宇宙人である描写は出てこないのです。

なので、途中でこの本を投げ出した人は、この家族を、

「自分たちを宇宙人だと思い込んでいるいるイタい人たち」

という印象を持たれると思います。

それはおそらく三島由紀夫が意識的に行ったことだろうと思います。

時代背景として、UFOを呼ぶための会合などが行われ、

その中で周りに人が集まってくるような、有名な人も多かったようです。

そんな人たちを主人公たちと重ねての執筆となっていたことでしょう。

当時はUFOを楽しむことが、文化人の嗜みとなっており、

星新一などはかなり熱心な活動をしていたようです。

現実ではUFOが来ることはなかなかなかったでしょうが、

三島由紀夫はこのような世相をどのように見ていたのでしょうか。

 

私はこの小説をエンタメSF小説と紹介しました。

家長としての威厳を取り戻すために父が起こした行動とは。

そしてクライマックス、4人の家族が見たものとは。

ぜひ最後まで読んでいただきたいと思います。

 

【公金無駄遣い?】琉球泡盛海外輸出プロジェクトを監視せよ(1)

愛する泡盛が未来永劫飲み続けられるように

琉球泡盛は沖縄の宝であり、象徴でもある。戦火によって一度失われた泡盛酒造の復興は、人々の情熱がにじむ美しい物語である。現在、産業として右肩下がりで危機感がありながらも、振興に対する施策が充実していることや地域での消費が支えていることから、ほどほどに安定している。

2018年の4月に宮腰首相補佐官(当時)の肝入りで「琉球泡盛海外輸出プロジェクト」が発足した。官民挙げてのプロジェクトであり、泡盛振興に国が乗り出すということで大きい期待感があったようだ。もうすぐ2年たつが、今どうなっているのだろうか。

www.okinawatimes.co.jp

同組合は、12月までには42・3キロリットルになると推計するが、プロジェクトが目標値とする「20年までに70キロリットル達成」は厳しい見通しだ。 

 実際の報告をみると2017年が28.8kl、プロジェクト発足年の2018年が30.6kl、そして2019年が42.3kl(推定)となっているようだ。2019年は前年度比38%程度の増加が見込まれるが、2020年の70kl目標への到達に対しては課題が大きいようだ。

そもそもその目標大丈夫?

2020年の海外出荷目標が70キロリットルということだが、この数字ってどういう数字だろうか。まず、2018年の年間泡盛総出荷量は16,829キロリットル。70キロリットルという数字は年間総出荷量の0.42%となる。少な!大きい酒造所だったら、10キロリットルくらい1回で作っちゃうよねぇ。30→70キロリットルって業界にとって経済的な意味あるの?

一方で、総出荷量16,829キロリットルのうち16.6%が県外出荷である。これは15年前には22.6%だったものだ。全体の出荷量が落ちているのは酒業界全体の傾向としてあるにしろ、県外出荷の割合がピークから減っていることに対してこれを伸びしろと捉えないのはなぜだろう。海外に0コンマ数%出荷量を増やすことよりも国内市場で数%増の目標の方が泡盛業界にとっては大事ではないか。

中長期的視点での海外進出戦略になっているか?

官民一体でのプロジェクトなので、短期的な経済的効果を狙うものではないということだろうか。泡盛を文化ごと海外に紹介して浸透を目指す、と。プロジェクトの行動計画を読むと、情報発信(SNSやイベント)やブランド化が重要視されており、販路の拡大のために必要なディストリビューターとの連携など具体的な計画については薄っぺらい。「まずは知ってもらうことが大事」なのかもしれないが、泡盛は一回これで失敗していることを忘れているのだろうか。

2001年に放送を開始したドラマ「ちゅらさん」は、国民的な人気を博して沖縄ブームをけん引した。泡盛も2000年代前半に県外出荷のピークを迎え、沖縄県内の酒造所は過剰な設備投資をおこなった。沖縄振興開発金融公庫レポートを読めば、一過的なブームを巻き起こしたメディア露出は中長期的に産業を疲弊させる、単なるドーピングに過ぎなかったことがわかる。多くの人が泡盛に触れたが、ブームを過ぎての定着は見られなかった。この事実についてどのような解釈がなされた結果、今のような情報発信偏重な事業が成立しうるのか、全く理解できない。

酒が海外進出するとはどういうことか

言うまでもなく、酒は歴史や食をふくめた文化と切り離せない。その土地にはその土地の文化に根付く食事と酒があるのが普通である。近所の小売店に外国のごく一部の島で作られている酒が入ってきたとして、どのような扱いを受けるか想像に難くない。

常陸野ネストビール」(木内酒造)は海外でも爆売れしているクラフトビールだ。木内社長の話を聞いたことがあるが、耳が痛かった。

日本で人気のない酒は海外でも売れない。

外人が売る酒なんて買わないよ。現地の人が現地の人に売るんだよ。

 コエドブルワリーも、現地資本の代理店と直接契約することで販路拡大に成功したようだ。酒類のグローバルスタンダートと言って差し支えないビールであって、この状況である。泡盛はどうすんのよ、本当に。

diamond.jp

よりハードな路線へ

かえりみて琉球泡盛海外輸出プロジェクトである。年間1億円近い国費が投入されても、ささいな目標到達には厳しいという現在の体たらく。レポート類を読んでもレベルの低さに顎が外れて治らない。イベントやってみましたー人来てよかったですーってのは、学園祭のレポートか何かかな?

泡盛の海外進出を中長期的に考えるというテーマであれば、私ならば、海外での泡盛醸造所設立を目指すかな。10人程度、タイや台湾から若い人を集めて酒造所で修行させる。帰国後もサポートを行い醸造所設立までこぎつける。地元の人に愛される泡盛が出来たら、本場の味を知りたい人が増えてくるでしょう。それは「まっさん」たちがウィスキーで、日本で行ったことと同じこと。酒に対する価値観を変えるには、文化形成に関わるつもりでハードにやらないと。

少なくとも、SNSでー、インフルエンサーがー、イベントで琉球空手とのコラボでー、海外から有名人を招いてーなんてさ、国のプロジェクトでやることじゃねぇんだよ。

貴様、腹を切る準備はできているか?

これからもきちんと経緯を追っていきましょう。血税を無駄にする人間は地獄の業火に投げ込む者である

このブログについて ver. 1 -発酵と音楽をDIY-

何だって自分でできるはず

DIYの目的は色々あるんだと思います。コストを工夫して買うより安く済ませたり、カスタムしてこの世に売ってないものを作ったりということがあるかもしれません。価値を生み出すことがとかく重要視される世の中だけど、作業の楽しさや作ることの達成感だったり個人的、内省的な喜びがDIYの基本的なトコなのではないでしょうか。自分が一生懸命おいしくなるように、好みや思い入れたっぷりに作った料理は、そりゃぁおいしいよ!そんなで考えると、料理は日常化された究極のDIYかもしれない。DIYを日常化するのは必ずしも効率のいいものではないでしょうね。でも逆に効率化のために全部アウトソーシングしたら、僕らは人間として何が残るんだろうか。だから、個人的な喜びのために、ひとまず何でもやってみよう。

発酵も自分でできるはず

発酵食品は好きですか?味噌、醤油、チーズ、ヨーグルト、漬物、納豆など、いろいろあるけれどもすべてに共通するのは「微生物」ということになります。食べ物は放っておくと腐るけれども、これも微生物のせいです。食べ物についた微生物は栄養を使って増え続けます。微生物は栄養を化学的に変化させて、エネルギーを取り出したり、自分にとって有利な物質を作り出したりします。もちろんこの化学反応にも副産物があり、微生物にとって必要のないものは排出されます。微生物が生きている中で生産される物質の中には、人にとって害のあるものも多いです。だから腐ったものを食べると人はお腹を壊すんです。しかし、増えても人にとって害のあるものを生産しない微生物が少なからずいます。それどころか、人にとって価値のあるものを生産する微生物もいます。彼らを利用した食品加工の技術が発酵技術です。

微生物は種類が多すぎてひとくくりにするのはよろしくない。少なくとも産業利用のためには、「人に好意的な微生物」「人に無害な微生物」「人を敵対視する微生物」と分けて考える必要があるかもしれません。発酵食品には「好意的」な微生物が必要です。発酵産業の発展はこれらの微生物管理技術の向上と関係があります。好ましい生育条件が似通った微生物が多いので、敵対勢力の侵入を防ぎながら腐敗しないようにするのが発酵の肝になります。この基本が分かっていれば、美味しいか美味しくないかはともかく、発酵も自分でできるはず。さぁ、やってみよう。

音楽制作も自分でできるはず

音楽は好きですか?クラシック、ロック、ジャズ、EDM、Hip-hopなど、いろいろあるけれども大体共通する音楽の要素は、「メロディー」「和音」「リズム」になります。メロディーはリード楽器が奏でる部分だったり、人が歌う旋律だったりです。和音は複数の音で奏でる「ハモリ」で、伴奏というイメージです。リズムはドラムやパーカッションなどがイメージしやすいですね、音が鳴るタイミングでコントロールされます。基本的には、この3要素の調和の妙で音楽はできています。3要素それぞれが無秩序に鳴っても音楽とは言えないことの方が多いです。多くの人が音楽として成立していると感じる状態を作るために、音楽理論が長い年月をかけて作り上げられました。

音楽理論体系は膨大過ぎてすべてを理解するのは実践的ではありません。多くの偉大なミュージシャンも他人の音楽を自分で演奏する「コピー」から始めている人がほとんどです。だから、少なくとも真似したい、好きな音楽は見つけておくといいかもしれません。メロディーとリズムは感覚的に真似できそうです。和音については少し勉強が必要そうです。この3要素について真似する方法が分かってくれば、美しいか美しくないかはともかく、音楽制作も自分でできるはず。さぁ、やってみよう。

変態を目指します

蝶やトンボは幼虫と成虫で大きくその形態を異にします。幼虫からさなぎを経て成虫へ姿かたちを変えることを「変態」といいます。世の中をみると、とても人と思えないことを平気でやる方たちがたくさんいます。彼らは技術の向上を絶え間なく続けることで、異形のものへと変態したのだと思います。人は変態できるんだと思うので、私も変態を目指します。このブログは、私という人間のさなぎの中のドロドロをお見せするブログです。