科学と発酵と音楽

科学も発酵も音楽も考えることが楽しい。雑記が中心。

研究者とポスト真実の時代

研究者たちは時空を超えて語り合う

 我々科学を扱う研究者は、事実を基にした物語を真実に近づけるため1000年以上にわたり営みを紡いできた。研究者同士は「論理=ロゴス」によって地域と時代を超えた交流を行っている。異国、異時代の研究者の論文を理解することが出来るのは、ひとえに論理を共有するからである。研究者は交流と継承を絶やさず、証拠に基づいた物語を創作している。この物語は新しい事実により補強されたり否定されたりを繰り返している。研究者はこの物語が最後は真実へ到達すると信じている。

研究に失敗はなく、人の営みが失敗という概念を生む

 研究者は失敗が許されている。否、厳密に言えば実験には未熟な失敗がつきものだが、研究に失敗はなく、ただ結果のみが厳然と立ちはだかっている。望まなかった結果であっても失敗とはみなさない。これを受け入れながら、前向きに物語を紡ぎ続けるのだ。しかしながら社会はこのような仕組みを持たない。望むべき結果や思想があり、それに最後まで寄り添うのが社会の営みであるから、望まない結果は失敗と言う。人は、幸せや生死に関わる意思決定は失敗と無縁であるべきと考えている。しかし人はまだ真実に達していないから、科学もあっさり君を裏切るだろう。だから、社会や生活における意思決定では、自分の物語を紡ぐのがあなたにできるただ一つのことである。

雰囲気で決められていく世の中

 現代において、いわゆる科学的な視点が社会に求められている。何事にも証拠を求めることが推奨される世の中である。実際にこれまでの考え方とは異なる視点を科学は提示するだろう。経営、教育、政策決定など様々な分野でのエビデンス・ベイスドは必要だと考えている人が多い。2016年の英国で流行語として「ポスト真実の時代」という言葉が話題となった。EU離脱選挙、および米大統領選挙においてフェイクニュースによる世論操作が堂々と行われ、人々の意思決定に影響を与えた。SNSによる共感と情動の伝播が事実に勝ったことは衝撃的だった。だからこそエビデンス・ベイスドなのだ、という主張が社会学者によってなされている。

エビデンスを真実のように扱う悪人たち

 私は、今世の中で使われるエビデンス・ベイスドは、ポスト真実の時代では悪用されると考えている。少なくとも、社会学者が提起する対抗するような考え方ではないということである。研究者は証拠を基にして物語を創作する。この物語はまだ真実ではない。あまた存在する研究者は、どのような物語に対しても証拠を持っている。あたらしい証拠により物語は書き換えられ、淘汰されていく。ある望ましい物語の証拠に基づいて意思決定を行っても、望ましい結果は大抵得られない。なぜなら、証拠の選び方が大抵の場合恣意的だからだ。エビデンス・ベイスドを語る人間はこの事実に気づいていないか、知っている人間は悪用していると考えてよい。科学的な証拠は今、共感を得るためのツールとして悪用されている。

今こそ語り合うための「ロゴス」

 ポスト真実の時代を科学は恐れている。2014年に日本で大きく問題になった捏造事件があった。主役の研究者は望ましい未来に大きく依存して、偽の証拠で作った物語で世の中の共感や賞賛を求めた。悪意の花は周りをすべて枯らし、しばらくその研究領域では日本の研究者が出した論文は成果として認められなかった。善意と自浄作用を信じる研究者には、これを止められない。ポスト真実の時代においては真実に頼ることすら、得策ではなくなってしまう。しかし我々はあきらめない。1000年以上にわたり物語を紡いできた研究者は、科学に限らずロゴスが地域と時代を超えて人々を繋ぐだろうと信じている。「はじめにロゴスありき」。そう、真実の前にロゴスからやりなおそう。これがポスト真実の時代における研究者の提言である。